ほんものとニセモノ。

一昨年からお世話になっている先生と会い、お話を聴き、思いを巡らすことが多くなった。まだまだ解は出せないのだけど、永遠に解は出せないのかもしれないのだけど、一歩でも1ミリでも想いを、暗黙知を、言葉にしたいという気持ちが今まで以上にむくむくとし、そのことにわくわくもしている。

 

ずっと気になっていた編集という仕事。その道のど真ん中にいる方のお話を聴き、言葉をかわす機会があった。心のどこかで私の仕事、私がしたいことは翻訳ではないかと思っているところがあり、翻訳と編集ということがもしかすると私の仕事を表す重要な言葉なのではないかとぼんやり思っていた。以前は編集といえば松岡正剛さんと思っていたのだけど、今は注目されている編集者さんが何人もいて、そんな方々が出版されたり講演されたりで引っぱりだこのように見受けられる。これもまた時代を象徴する、今の時代が求めていることなのだろうと思う。

 

先生といい、編集者の方といい、その道で真摯にきちんとお仕事をされている方は奥が深いとつくづく感じている。全国区の方だからすごいということではないのだろうけど、その道で知られる人は、それだけの理由があるわけで、地方で声高に語るだけの人とは違うということを話を聞くと思い知らされる。安直にひとことでいえば、ほんものは違う、のだ。関東のすごいところは、そういう人がうじょうじょいるということなのだろうと思う。面白い人、ほんものがたくさんいるからその化学反応で面白いことが生まれ、ほんものが育つ。ほんものに鍛えられた人たちがまた、ほんものになっていく。その連鎖がうまれる構造があること自体がすごいことなのだろうと思うのだ。

 

地方創生とかなんとか言われながらスタートアップイベントやそのほかいろいろなイベントや事業が行われているのだけど、ほんものの連鎖みたいなものがまだ起きていなくて、ニセモノっぽいヒトモノコトばかりがプツプツとうまれては勘違いに包まれた小さな世界の中で井の中の蛙になっている。そんな印象がある。ニセモノもそのうち本物へと育っていけば良いのだけど、へんな縄張り意識があったり、我が物顔でまちづくりとか地方創生とか人材育成を声高にかたりながら闊歩しているような印象もある。ニセモノであれなんであれ、もちろん地方であれ杭が出てきたことは何も出ないより喜ばしいことだと思うので、ほんものへと育ってほしいと思うのだけども内省のないポジティブさばかりで自分を疑うことなく自分の成長を自分でとめようとしているように見えて悲しくなる。
そんなふうに書いている私自身が何様よ!なのであるが、人のふりみて我がふりなおせで大きな学びをいただいていることに感謝している。

 

ほんものとニセモノ。ほんものは自分を疑い、自分をほんものだとは思わないのかもしれないけれど、ニセモノは自分を疑わず自分はホンモノだと思っているのだろうなぁ。